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51×45×16.自然石表面の目立つ箇所(20×30)の中に,Saadiの"Bustan"から引用され,タジク語韻文(真中の2行は,残りの行の左に,それらに対して垂直な行)で書かれた六行の詩がNastalikの筆記体で彫られている. 「私はJamshidが天性において至福であると聞いた. 水源のそばにて,私は石に記した.」 「私と同じように,人々はこの水源のそばで憩い, そして去っていった,[永久に]その目を閉じるために. 我々は勇気と力によって平和を獲得した. しかし,自分自身を墓場へと運び去ることはない.」 (翻訳:М. Салье) 右の離れた行に,アラビア語で「Baburこれを記す.917(ヘジラ暦=1511から1512)」とある. 第五代のTimurの後裔である,スルタン・Zahiruddin Muhammad Bobur(1483年から1530年)はFargonaの統治者としてその経歴を出発させている.Shaybanidとの戦いで三度Samarkandを失い,ある時にはKabulを支配し,インドにおいて大ムガール帝国の創始者として歴史にとどまった.彼自身,劇的な出来事の自己の完全な生涯を,編集された"Boburnome" ("Boburの覚書")で詳細に記述した.Zeravshan上流における彼の滞在についての報告は,Obburdon居住地において一致している.それは水源のそばで二行詩三連を石に刻み与えたことの事実について言及している.調査は現地の住人の協力を得て,1953年,若い大学院生Ахрором Мухтаровによって行われ,碑文を発見するという栄誉を得た. Лит.: Мухтаров 1954, с. 109 - 115. |
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