9世紀から12世紀,南タジキスタン地域はKhuttalとRasht(Karoteginにあたる)の傘下に入った.KhuttalとRashtの首長達は彼らの独立を保ち,アム河の南に位置する地域に対して,残りのMaverannahrよりも政治的により多くの影響力をもった.中世の歴史家によれば,強力なSamanidの宮廷に対してさえも,彼らが送ったものは「貢物のみで、税はなし」であった.
Khuttalにおいては,明らかに,イスラーム以前の文化の完全な破壊は起こらなかった.12世紀においてさえもKhuttalの首長たちはSasanidのVarakhran 5世(420〜438)−Bahram Gurに対し,誇りを持って自分たちの家門を挙げたことが知られている.前モンゴル期Khuttalの芸術的文化において,その政治的方針の直接的反映が見出された.その芸術はGaznevid国の芸術と最も緊密に関連している.そのことは,特に,儀礼用施設の芸術的装飾−聖俗両面−の例によっても明らかである.展示にはこの時期の二つの都城−KurbanshaidとSayodの宮殿建築からの資料が紹介されている.その都城の発掘は長年にわたってY. G. Gulyamovによって指揮されてきた.
Lagman都城−Halevard市の廃墟で得られた10世紀から12世紀の金属製品の宝物には,大きな科学的・芸術的価値がある.また最後に展示においてBazar-dara−東パミールの鉱夫居住地の発掘で得られた品物,また同じく別個の出土品も展示される.Kurbanshaid都城はVose地域の中心から北北西7キロメートルの位置にあり,今ではほとんど全体が現在の建物の下にある.この都城と一致する,中世のHulbukは莫大な地域を占めていた.その中心部分だけでも70ヘクタールあった.城郭は市の南西部にあった.
正確に市(Shahristan)の領域において,量的に比較的ひかえめな発掘が行われたが,城郭は今ではほとんど完全に発掘されている.城郭とShahristanの両方では,大多数の建物は焼いたレンガで建てられている.時として生のレンガが焼いたレンガとの組み合わせで,時として別個に使われた.建物の壁は白や彩色された漆喰でおおわれていた.焼き物のタイルによって縁が複雑な紋様で積み上げられていた.市街では多数の工房があり,水供給も機能していた.
長方形の城郭(50m×150m)は二つの部分があった.周りの土地より15m程高くなった,城郭の南部分(50m×50m)はほとんど完全に発掘されている.北部分は低く(水準でおよそ5m程の差に)なっている.
城郭には二つの存続期を生き抜いた宮殿があった.最初,それは三つの部分からなる構成・計画の図面であり,当時は同じ水準で建物が築かれた.その中央には焼き物のブロックで舗装された広大な中庭があり,大きな貯水池が中央の配置を形成するようになっていた.中庭の周囲に沿って,Ayvanが貯水池に向かって開かれている諸施設があった.儀式用の施設は彫刻した漆喰でできた板で飾られ,Ayvanの壁は絵画でおおわれていた.
諸施設は開けられた光取り窓によって分類された.壁は日干しレンガで,縁はタイルで縁取られていた.開けられた穴の(四角の内側に出来たほかの長方形が模られた)模様のついた床は特に効果的であった。周辺の内側には中庭側に開いた柱廊が配され,その屋根は柱で支えられていた.中庭の壁は浅い彫りの漆喰でおおわれていた−(早い段階では)模様によっており,それは立体的であるよりも絵画的であった.(修復あるいは再建後)それに替えて深い彫りの漆喰がでてきた.
11世紀,城郭の南部分は大火災の後に完全に再建された.宮殿の跡は均されて土台が築かれ,その上に宮殿のこの部分が新たに建築された.この場合,設計案は原則的に変更された.新たな宮殿では回廊に分断された二つの部分からなっており,一方,儀式用や居住,経済的施設は作られた四つの隅に集められた.新しい宮殿は中庭やそれに対して北寄りになる貯水池よりもかなり高くなった.従って,南北の軸に沿った回廊は,中庭(北部分)から続く入り口付近できつく上っていた.宮殿のこの部分の施設は少なくとも三度建て直され,その度ごとに彫刻した漆喰の板や装飾的絵画で飾られた.Khulibuk発掘の全期間中,完全なあるいはほとんど完全な板を含んだ,五千以上の漆喰彫刻が発見された.幾何学的,植物,動物や文字の主題は非常に多様であり,また多種な組み合わせによってそれら同士が組み合わせられた.Hulbukの芸術彫刻の親方は雪花石膏に顔料を上手に用いた.彼らは彫刻された板の基礎的表面についてのみならず背景の深い部分についての彩色による特殊な芸術的効果に到達していた.
イスラーム以前の伝統に由来する楽人の姿をともなった主題的絵画はここで発見された.このような壁画の発見が大変まれであるとはいえ,その発見は根本的な意味をもっている.
9世紀から13世紀初めのHulbukから出土した金属製の芸術的品々,珍しいガラス製品の莫大なコレクション,釉薬や印刻をほどこした陶器,石製品,象牙製のチェス駒のコレクションやその他の発見は光を,そしてこの時代に用いられた技術についての完全な見解を充分にもたらす.
Sayod都城(Khatlon州のHamadoni居住地から南西へ18キロメートル)はPanj河畔にあり,同じ時代に関連し,Hulbukの遺跡のような芸術的遺跡と同じ領域としてほぼ知られている.
この都城の大きさは1.5×0.8キロメートルであるが,ここでは城郭での発掘は行われていない.しかし,正確に市の領域に於いて,中央に中庭(25×25m)がある一つの離れた建物が発掘され,その周りには周辺部に住宅用と経済的施設(全部で40)が位置していた.施設の大多数と中庭に面した外側の壁は一面に彫刻した漆喰で飾られていた.ここでの防備はKurbanshaid都城よりかなり良かった.
儀式用の施設は建物の南部分にあった.施設No.19(ここでは,壁の漆喰板はほぼ1.5mの高さで保たれていた)において,西壁にMihrabの龕が配されていた.そのアーチは模られた柱頭(チューリップの図で飾られた)がある四分の三の円柱上に支えられていた.アーチ型の龕は装飾的なドーム式の枠組みの中に順番に設けられ,室内の屋根は押印されたアカンサス(漆喰彫刻)で装飾されたTrompに支えられていた.他の諸施設は豪華にそして多様に飾られていた.そしてそれらに興味深い浴室が設備のために付けられた.
Sayodの漆喰彫刻では(Khulibukと同様に)親方たちの専門的水準の高さが特徴的である.装飾的作品の構成は自信に満ちそして非のうちどころもないほどに正確である.彼らは建物の装飾の中での配置と動物の主題(獅子,鳥,魚など)による漆喰装飾の充実した作品を常に考慮していた.そしてついに効果の全段階による技巧を手に入れ,パネル彫刻の着色に到達した.Khulibukにおけるのと同様,ここでもまた主題をもった壁画の遺品が発見された.
見たところ,Sayod都城全ての建物にこの壮麗な芸術的装飾があるわけではないようである.ここで発掘された他の,離れた建物も,同じ建築図案(中央の中庭を囲む方形の建物)を繰り返していた.しかしそれは全ての面で(芸術的装飾を含めて)かなり質素なものであった.
E. G. Glyamova によって1970年からここで行われてきた発掘では,様々な点でKurbanshaid都城の出土物と呼応するような陶器,ガラス,青銅製の芸術品が多量もたらされた.
Vakhsh渓谷にあるLagman都城(Vakhsh河のすぐ岸にあり,Kolkhozabad市北西12キロメートルのUzun居住地)−それは10世紀から12世紀にかけてのVakhsh地域の首都であったHalevard市の遺跡である.都城は矩形(900m×640m)で,三方を塔と堀(四番目の側面から,Vakhsh河の高く険しい岸に沿って壁はない)を備えた強力で堅い壁でまもられ,四つの門があった.小規模な発掘(最初は1957年と1962年にT. I. Zeymal,次に1980年から1981年にV. S. Solovev)が,2世紀から4世紀に興り,また6世紀から8世紀に存続し続けたことの確定を可能にした.しかし,その最も偉大な開花期は10世紀から13世紀の初めにきた−その時期はモンゴルの侵入に先行し,その後(多くの他のVakhsh渓谷にある居住地と同様)荒廃に至った.その都城の領域に位置するUzun村の住人たちは,10世紀から12世紀の土器の皿,貨幣,金属やその他の製品をしきりに発見した.そのような出土品の幾らかが10世紀から12世紀の青銅製品の大いなる宝物である−それらは1986年にタジキスタン共和国A. Donisha科学アカデミーに移管された.
Bazardara−海抜3900mの高さの東パミールにある11世紀の鉱夫たちの居住地(Okjilga河のほとり,鉱山のMurgab地域−Badakhshan自治区)は二つの部分からなる.中央部分は岩壁に囲まれキャラバン小屋の役を果たしている(約400平方メートルの区域で完全に発掘されている).そしてまさに居住地(約1ヘクタールの区域),それは80から85の家からなっており,それぞれの家には居住できる小部屋が三つあり,それらの全てには個別の外への出口があった(そのような六つの家を発掘).居住地の隣には墓地(六つの墓を発掘)があった.1964年から1967年そして1973年から1975年,M. A. Bubnovoiによってここで実施された発掘の期間中に資料が得られた.それらの資料の特別な価値は,極度の乾燥のもと,ここでは,普通では保存されないような,布や皮の衣料,タジク語で構成された紙の文献の断片やその他の有機物資料が保存されていたという事実によっている.
南タジキスタンから出た多数の中世期の単独出土物中でも,Murgab地域から出土した容器のコレクションは注目されるべきである.
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