現在のタジキスタンはまさにその東の端に比較的にわずかなソグディアナ(ソグドの地)を含んでいるだけである.しかし,残りの領土に属するこの中世初期の遺跡がソグド人の元来の地を形成していた.ここ,現在のPenjkentの周辺地において,5世紀から8世紀にかけてソグドの具体的所有地の一中心地であった中世初期の都城の発掘が40年にわたって実施されてきた.
市全体についての体系的調査作業に重点を置き,広い領域による長期の体系的調査によって,Penjkentの状況に最大限に合致した発掘の実施と手順をもたらすことができた.結果として,50年まで(また,幾らかは20年までの層)の地層や建物の年代判定の確実さが得られた.ただし,今のところ,古代期と中世初期に属する他の中央アジアの遺跡について利用することはできない.
5世紀から8世紀におけるソグドの美術・文化的遺跡の広範さ,取り分けて百数メータ四方の壁画や木彫による建物の装飾使用の膨大な性格,それらがフィールドの研究室としてのPenjilent都城(特に発掘の最初年において)を形づくっていた.その中で中世初期のソグド美術による遺跡の保護管理と修復についての最善の方法が発展し試された.後に,それらの方法は他の中央アジアの遺跡でもうまく利用され,その限界をこえていった.そして,最終的に,Penjikent都城はMoscow,Leningrad,Tajikistan,KazakhstanやUzbekistanで活動する研究者の数世代にとっての実質的な学校となった(そして今もそうあり続けている).
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Penjikent都城は三つの防御された区域をともなう広大な城郭から成っている.厳密には市−Shakhristana,また郊外の土地や古代墓地も防御壁で囲まれていた.
市は5世紀に建てられたが,城郭域によく防御された住居が現われたのは明らかにより早い.Shakhristanaの最初の区域は約8ヘクタールであり,6世紀には東と南へと拡大,新たな壁に囲まれた後,このようにして市内と市外に分けられる,およそ二つの時期の遺跡ができた.内側の壁は数度改築され,そして8世紀の始めには取り壊された.
5世紀にはPenjikentのShakhristanaの中央部分は,同じ図面による二つの寺院を備えた広大な矩形の聖なる部分によって占められていた.それぞれの寺院には東と西に二つの中庭があった.さらに東の中庭を通して通路に出る.また,基壇の西に東を正面にした主要建物がたっていた.寺院は何度も改築されたが,この場合にはそれらの根本的特徴は残された.寺院中庭の構成の基盤は東西の道である.入り口の円柱・柱廊式玄関が狭い傾斜路へと続き,そこを通って主要建物の基壇へとのぼった.寺院の建物には広い柱廊式玄関があり,そこで四本円柱の広間が発見された.その東の壁はなかった.広間の奥には寺院の矩形のSellaへ入る扉があった.歩廊が広間とSellaを三方面から廻っていた.
寺院の主要な像は残されていなかった.しかし,5世紀の終りから6世紀の始めにかけての(南の)寺院1には,聖火のための特別な施設があった.一方(北の)寺院2には,明らかに水に関連する要素が認められた.
Shakhristanaの基本的領域は,作業台,市場,道路や路地の網による工房や数百もの多数な部屋のアパートを擁した広大な居住区域を占めていた.今,8世紀の第一四半期の建物や地層が十二分に(その区域全体ですでに三つ目の都城を超えている)調査されている.それはイスラーム化以前の時代における中央アジアの市の構造を判断するのを可能にした.その時期はPenjikentの住宅用建物が最終的にブロック−二・三階建ての家々の側面や裏面の壁によって互いに近接した,連続する地帯−に替わっていった頃であり,近接した正面が道路に沿って連続した壁を形成していた.家々には異なった数の部屋があり,それらの全てに特別な儀式用広間があるのではない.建物は同様の明らかに高い建造−技術水準によって同時に建てられ,それらの中に「小屋」などはなかった.それは普通の市民でさえも繁栄していたことを示している.普通の住居の区域は大体60平方メートルの平均で構成され,裕福な家(宮殿)は2100平方メートルに達する.およそ三分の一の家には,木の彫り物や壁画によって装飾された儀礼用の施設があった.これらの家は地主や商人等の貴族のものであった.多くの裕福な家に対して道路側からベンチや工房が付随しており,それらから家への道はない.明らかに,これらの施設で働いていた職人や商っていた小規模な商人といった普通の市民は,貴族の代表的者からそれらを借りていた.
絵や木像はどのような裕福な市民の家にある儀式用施設をも飾っていた.儀式用広間(普通高い木造天井を備えていた)は絵が描かれていた.真っ直ぐなあるいはかぎ状の回廊がそのような広間に,またしばしば同様に他の施設,壁の近くに拝火台の中核を備えた部屋や家への入り口を備えた柱廊式玄関やLojiya(玄関外側の張り出し部)へと続いていた.儀式用広間の規模は30から250平方メートルの間であり.平面図において,それらは矩形の「後陣」を備えた方形あるいは矩形である.方形の広間にはしばしば四本の円柱で支えられた天井があった.城郭内にあるDevashtich宮殿はPenjikentの金持ちの家とよく似ている.−事実,Penjikentの君主は,市の貴族たちとの関係に於いて,単に「同等な者のなかで第一の者」であった.しかし,彼の宮殿には四つの儀式用広間があった.三つは方形で,一つは矩形の広間である.
郊外地域では市の古代墓地が調査された.小さな矩形の土台の建物が,遺骨を保管するための容器−Ossuariを納めた墓−Nausである.そのOssuariの中にばらばらになって柔らかい被いに入れられた死者の遺骨がある.Nausは5世紀から6世紀そして8世紀に作られた.Penjikentの周辺地でのOssuari埋葬とともに,大きな容器−甕の中に遺骨を入れ墓所に(底を付けカタコンベの中に死体の状態で)埋葬したことが知られている.
Penjikentでは地方的宗教(非常に強い異教の伝統をともなったゾロアスター教)の信奉者が住民の大多数を構成したのと並んで,キリスト教徒もまた住んでいた.仏教徒やイスラム教徒も8世紀に現われた.これらの宗教はソグドの人々の間に広がった.墓所の埋葬の一部は,明らかにPenjikentのキリスト教徒のものである.
甕の中に描かれた神格の絵は大体5世紀から6世紀の変わり目を証明している.押印されたテラコッタである小さいObrazの広範な出現は6世紀に属し,8世紀の始めには消滅した.これらの小さなObraz(同じ神の別個の姿として)はおそらく一般的家々のイコンによって作られた.裕福な家では,これらに相応する絵による同類の像が儀礼用広間入り口の向かい側壁面にあった.小さなObrazのテラコッタの消滅は市の最盛期の間であり,おそらく板の上のより高価な絵画的イコン−西トルキスタンの出土品で知られるーによって取って代られたことで証明できるだろうが,Penjikentの気候的状況の下,保存されることはなかった.春の儀式に関連した動物あるいは騎士を模った粘土の玩具は7世紀と8世紀の変わり目に頃には,より完全なものとなっていた.騎士の姿を刻印するための特別な印が現われた.それらは手で模られたり,あるいはある姿を製作することを意図した印によって押印された.
芸術的陶器の作成はテラコッタ製作と密接に関わっている.5世紀から7世紀,食器類は一般的に赤いAngob(漆)で装飾されていた.2世紀の間,カップや水差しの主な種類は数度変化した.個々の工房は好みの形や仕上げの方法をもっていた.7世紀の終りから8世紀にかけて,全般的な経済や文化の興隆に関連して,芸術的陶芸品は変化した.その形や装飾には高価な銀のジョッキやカップ,水差しの影響が反映している.
Penjikentでは,10世紀から12世紀にかけの中央アジア青銅器芸術開花の先駆けである8世紀の青銅容器数点が発見されている.展示ではPenjikentの鋳造青銅器の品々−飾られた取っ手のついた鏡や指輪,環,ベルト,馬具などが広く紹介されている.ベルトは明らかにソグドの人々とステップに住むトルコ人との関係を示している.トルコ人にとってベルトは軍人の重要な象徴の一つであった.骨細工の品々,それらの中でも特に興味深いのが馬具を付けた馬の姿がある板の断片であるが,それらもまた定着文化と遊牧文化の近接を示している.
ソグドの市の発展した事業は個人的印鑑や,文書に下げられた仏陀や陶器の容器に付けられたそれらの印影の出土品に反映している.一つの家には,722年に焼失した特別な公文書館全体からの文書が保存されていた.ソグド人が,あるいは筆記具を用いて墨で,あるいは蝋板に金属による方法で,あるいは石に碑文を打ち出して書いた.
古代Penjikentは8世紀第一四半期に最も偉大な開花期に達した.その時Devashtichのその統治者は自身を「Sogdの王,Samarkandの主による」と宣言した.Zeravshan渓谷とKashkadariに位置していたソグド国の首都はSamarkandであった.しかし,711年に,アラブの征服者たちがそこを駐屯地として支配した.他のソグドの運命と同様に,Penjikent公国は、最初はアラブのカリフに従属し,後にそれに対して蜂起した.720年代の蜂起の中で,何れか一つの蜂起の後に住民はPenjikentを離れ,15年間は住むことのない状態が続いた.740年ころ,アラブとの和平協定が結ばれて後,ソグドの人々は戻り自分たちの家を修復した.しかし,寺院は修復されなかった.城郭のDevashtich宮殿の地点はおそらくアラブ駐屯地のための兵舎として整理された.8世紀の中頃以後,多くの家が損なわれ,家庭の祭壇や神々と人々の絵像も破壊されはじめた.それは明らかに市民のイスラームへの移行を証言している.770年代終りあるいは780年代初めの時期に,全ソグドは蜂起したMukannaに包囲され,住人は市を離れた.後のPenjikentでは新たな場所に建設し,5世紀から8世紀にかけての市街地は荒廃した.
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