五千年−まさに定着農業文化に関わる古代遺跡の時代−がタジキスタンの限界として知られている.まさに,青銅期文明のこれら最古の中心について,民俗学的経過についての糸口が得られており,それはタジキスタン領域における社会階級の最初の遺跡(紀元前1千年紀中葉)にさかのぼる.

 タジキスタンにおける青銅器時代の居住地や墓についての学術的研究は,より早い時期に知られた単独の発見(Terenojkin, 1948; cf. Litvinskiy 1954)を考慮しないとすれば,1970年代における成果であった.ソグディアナ地域(Kayrakhum貯水池地区−Litvinskiy,他,1962年)やBeshkent渓谷(Mandelstam, 1968年)での発見,B. A. Litvinskiyの管理下でのVakhsh川・Kyzylsu川下流域における発掘(1962年から1964年),Gissar渓谷(N. M. VinogradovとL. T. Pyankov - 1974年から1977年)そしてNurek貯水池地区での作業,そして最後に1976年,A. I. IsakovによるSarazm付近(Penjikent市から西15キロメートル,Zeravshan渓谷)における紀元前4千年紀末から2千年紀までの大きな居住地の遺跡の発見−以上がタジキスタン領域内での青銅器時代研究の基本的な画期的発見についての簡単な一覧である.

 Sarazm付近の青銅器時代居住地(広さ100ヘクタール以上)は,中央アジアにおける最大(そして唯一)の定着農業によるMejdurec文化の遺跡であり,それはエジプトやメソポタミアにおいて,人類の歴史における文明の起源である古代文明人が現われた時代と関連している(紀元前4千年紀末から2千年紀).一定の困難を克服して,この遺跡(特にその存続の早い段階)の年代判定に関連して,1977年に始まったSarazmでの駐留発掘に携わったA. I. Isakovは,新石器時代についてTurkmenia南東地域の住民との連絡,及びSarazm居住地の住民における彩色土器文化(発掘2における初期層)の伝統による影響に特に言及して,Zeravshan渓谷にある新石器時代の遺跡をSarazm文化の発生学的基盤であると考えた.土器作品の形態と装飾,斧状・円盤状の分銅やそれ以外のSarazm居住地における物資地文化の特殊な形は,BaluchistanやSeistanaにも及ぶ,非常に離れた地域の遺跡と比較することを可能にした.しかし,中東の他の初期農耕文化の領域におけるSarazmの位置を決定するには,いまのところ,時期尚早である.Sarazmの調査は継続しており,毎年注目すべき新たな発見がもたらされている.

 ナイフ,短剣,鏃,斧状また他の金属製武器,土器や他の出土品はSarazmの物質文化について非常に詳細な考えをもたらす.全体としての居住地の建物についての特別な形態−道や路地で分けられた区画,2から3の施設と穴からなる「標準的」住居のプラン,高いレベルの建築学的知識と「Sarazm民」の気質を証明する,公的使用の建物の存在−が次第に明らかになっている.穴のあいた特殊な仕掛けの円盤型祭壇は居住地住民の思想上の理解について最初の情報をもたらした.

 いまのところ,Sarazmからの出土品に示されるように,青銅器期文化のステップの風俗を持った部族との接触が顕著に強まった,紀元前2千年紀の前半−居住地存続の最後の段階については一番良く研究されている.

 今のところ,調査された遺跡から判断して,青銅器時代の部族によるタジキスタン南部領域の広範な支配は,主にこの時代の最終時期(紀元前2千年紀中葉から紀元前1千年紀初め)になされたようである,しかし任意採集の青銅斧(Sharshara出土,SangvoraとArakchina出土の斧−Zeymali, 1958年)が知られており,それは紀元前3千年紀から紀元前2千年紀中葉に関連する(Litvinskiy, 1961年).

 タジキスタン南部における青銅器時代にとっては,また二つの文化的・経済的な地帯−牧畜と定着農業(しかし,すでに古代Bactori地域の特質を備えた地方的外観の)−の共存が特徴的である.

 牧畜部族の墓の基本的グループはPanj・Amu-Darya川右支流の下流域(Beshkent, Jarkuli, Makonimor の墓)に位置している.民族学的プランにおいて,経済的活動の視点から,また生態学的条件において統一されたタジキスタン南部の牧畜による部族の住民グループは,晩期のSapali型の文化に対する明確なあこがれと研究者たちがアフガニスタン北部の古代農業の中心から排除したVakhsh文化を示しているBeshkentの文化へと確実に分かれている(Pyankova, 1982, 参照. 48 - 49).青銅器時代末期,ステップ地域の部族はタジキスタン南部の牧畜文化の形成に参与した.彼らはAndronova文化と関わり,その北からの新顔はBeshkentの文化に大きな効果を持っていた.

 定着農業の外見の土器をともなった青銅器時代の墓はアフガニスタン−タジキスタンの国境北側に沿って調査された(Gissar渓谷の西部のTandyryul,Nurek墓−Nurekから東に8キロメートル).Dangarin地域のTeguzak居住地(1979年からL. T. Pyankovによって調査)−夏季放牧の囲い込みに関わる季節居住地について,二つの文化・歴史の伝統−定着農業とスッテップ−による直接の組み合わせが(一つの遺跡内に)あったことは注目に値する.